移住者の声

そもそも医師になりたかったわけではないのですが、高校生の時にたまたま成績が良くて医学部にも入れたので、大分大学の医学部に進みました。生まれ育った宮崎を離れ、大学に入ってみると医学部の勉強は難しく、量も多くて進級すらままならなくなってしまいました。

これはもう卒業は無理だと思い、7年目の前期の授業料とアルバイトで貯めていたお金を握りしめて、親のほとぼりが冷めるまでと中国へ逃亡しました。行き先はどこでも良かったのですが、当時は長崎から上海への船が出ていたので、それに乗りました。

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中国ではバックパッカーでブラブラしていていました。お金が無くなったら帰国するつもりでしたが、中国の物価が安く思いの外お金が無くならずに、1年間もの放浪になり、インドまでたどり着いてしまいました。戻ってくる途中のマカオでカジノに手を出してしまい、お金が尽きました。

お金が無くなったので、いったん日本に戻り、まだ就職する気は無かったので、今度はワーキングホリデーのビザを取得し、オーストラリアへ逃亡しました。
オーストラリアでは農園で働きました。人手の足りない農園から1〜3ヶ月間の収穫や剪定の作業依頼があり、いろんな作物の農園からいろいろな依頼があるので、仕事には困らず、田舎なのですることも無く、お金は貯まるばかりでした。当時のオーストラリアには半年間働いて、半年間はサーフィンをして暮らしている人達や、自分のようなバックパッカーが大勢いて、仕事や暮らしの情報交換をしていました。そういった先輩バックパッカーから、チベットの素晴らしさを教わって「それは行かんといかん!」と思ってしまいました。オーストラリアに渡って9ヶ月間で5,000ドル貯まったので、再びアジアに戻りました。

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1997年27才の時です。まずはタイまで戻り、ラオスを抜けて、雲南省に入りいろいろな苦難の果てにチベットにたどり着きました。

チベットでは寺院を巡りつつ、ダライ・ラマ政権時代の首都であった古都ラサを目指しました。私はただのバックパッカーで、せっかくチベットに入れたのだから、古都ラサを見たい程度の考えなのですが、チベットの寺院でラサを目指していると言うと、現地の僧侶達が感激して「あなたはなんて素晴らしい仏教徒だ」と褒めてくれるのが、なんだか申し訳なかったです。

1ヶ月位かけて8月の終わりに古都ラサまでたどり着いたのですが、10月に雪が降り始めると次の春になるまでチベットから出られなくなるので、慌ててネパールに向かいました。ネパールでお腹を壊して3週間寝込み、回復してからインドに入りました。

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インドではヨガや瞑想にハマった人たちが、山小屋の様な建物で小さな集落を作っていて、そこに1日300円位で滞在できたので、その集落でヨガや瞑想をしつつ暮らしました。インドの旅行者用ビザが6ヶ月滞在までしか取れないので、ビザが切れそうになるとスリランカやネパールに一度出て、またインドのヨガ集落に戻ることを繰り返していました。

1998年にインドを出て、ビルマに立ち寄り、タイから日本へ帰国し、宮崎市に戻りました。関西空港に着いた時の所持金が20ドルでした。

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24才から逃亡生活に入り、28才になってやっと戻って来たわけです。それから宮崎市の喫茶店でアルバイトを始めて、そこでコーヒーの焙煎について勉強しました。3年ほどそちらの喫茶店で勉強して次はパンの勉強がしたいと思い、シェラトンホテルの厨房に入り通訳兼任で3年働きました。その後街のパン屋さんで3年修行しましたが、結局パンはやらずにコーヒー豆を自家焙煎し、配達で販売する珈琲工房アンチョビとして独立しました。今ではたくさんの個人のお客様や、フーデリー全5店舗、パン屋さんや雑貨屋さんに珈琲豆を配達で販売させていただいています。

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4年間海外を色々と旅して宮崎市に戻ってきて気付いたのは、どこに行っても同じイヤなことは起こるってことでした。イヤなことが起こる度に次の街に行ってもまた同じイヤなことが起こり、結局どこで暮らすにしても、自分の欠陥と向き合わなければ、どこまで逃げても同じなのです。
自分は世界中を逃避しましたが、どこに行っても自分にとって最高の楽園はありませんでした。結局最終的に生まれ故郷の宮崎市に戻り、ここで自分と向き合いながら暮らしていこうと決めました。

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帰国後、喫茶店、ホテル、パン屋さんに勤めましたが、自分には勤め人は無理だと感じました。海外逃亡が長すぎたのだと思います。3ヶ月位の逃亡で、宮崎に戻っていれば、公務員や郵便局員といった道も選べたのかもしれないな、と思うことはあります。
でも今は、私の焙煎する珈琲豆を待っていてくださるお客様がいる。そのことが私が宮崎市で暮らしていける原動力になっています。店舗も持たず自宅で焙煎する小さな工房ですが、お客様が喜んでくれる美味しい珈琲豆をこれからも珈琲工房アンチョビで焙煎し続けます。

豊田裕さん 1970年生まれ 珈琲工房アンチョビ店主
宮崎市出身。18才で大分大学医学部へ進学。以降24才まで大分県で大学生として生活。6年間かけて4年生まで進級するも、医師への道を断念。海外へ逃亡生活に入る。

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